この記事は、「絶望するということ。」の続編としてつづっています。
絶望したい人なんて誰もいない
苦しい思いをしたい人なんて誰もいない
できれば
絶望なんてしなくても
自ら気づき
意識を切り替え
抗うことをやめられたらどれだけ良いか
でもそれを素直にできないのが人間というもの
蜘蛛の糸の細さにも満たない希望にすがってみたり
無自覚にその問題を無かったことにしてみたり
他責にして逃れられた気になってみたり
あの手この手を使って自分を誤魔化し続ける
なぜなら
認めたくない何かを認めることで
諦めなきゃいけない何かを諦めることで
避けては通れない『痛み』に触れてしまうからだ
そして それは同時に
自分の柔らかい部分を守るために築いてきた鎧を脱ぐ瞬間でもある
それまでの自分を支えてきたアイデンティティが崩壊する瞬間でもある
私だって
何度経験しても嫌だ
できれば痛い思いはしたくない
こんな記事を書いていても
できれば避けていたいのも事実だ。
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前回の記事「絶望するということ。」を読んで
友人がメッセージをくれた。
昔の会社の先輩のビジネス本がどれもすごくて、自由にしながらもめちゃくちゃ成果を上げている人で、ずっと「この人何を考えているんだろう?」と謎だったんですが、「源に絶望できる力がある」「ちゃんと絶望する」をやっているのだと気づきました。
彼女はこの力を「絶望力」と呼んでいるそうだ。
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例え抵抗したとしても
起こることは起こる
起こるべきことが
起こるべきタイミングで起こる
だったら「事」が大きくなる前に
早めに絶望できたらいいのにね
でもきっとその先には
今の自分では想像もつかない世界が待っている
今の自分の延長線上にはない新しい自分が待っている
その体験をした人たちから滲み出る
その慈悲深さは
周囲の人たちの癒しとなる
ちゃんと絶望して
ちゃんと降参して
ちゃんと終わらる
終われば始まるし
始まれば終わる
世界はこれの繰り返しで回っている
絶望は新しい世界への大きな扉でもあるのだ。