本音で生きる。

想うこと

人が潜在的に思っている本音は、「私は〇〇だ!」と発言してることより、何気ない会話や行動や振る舞いに現れるものだ。そこを敏感にキャッチする私は、そのズレが違和感として残る。


ズレが生じる理由は、そこに「こうあるべき」という信念や「自分の本音はあってはいけない」という何らかの「痛み」や「怖さ」があるからだ。無意識に隠してしまう人間の本能だ。そのズレに触れるたびに私は、「大丈夫だよ」と心の中でハグをしている。


そして私自身も、この「痛み」や「恐れ」に触れるのを避けたくて、抑圧してきた「本音の自分」というものをたくさん抱えている。今だって完全に癒えたとは言えない。まだまだ「本音の自分」を出すときは傷が疼くから。


それでも自分と何度も向き合って、私はどんな生き方がしたいのか、どんな世界を生きたいのか、何度も何度も問い、少しずつ覚悟を決め選択をしている。


早ければいいとか、遅ければだめということはない。
人それぞれタイミングがある。事情もある。みんな精一杯生きている。


でもこの投稿に何か揺さぶられる何かがあるのなら、その痛みを見に行くタイミングが来ているのかもしれないね。


ちなみに、このプロセスには終わりはない。本音で生きられる時もあれば、本音で生きられない時もある。「それでも純度高く本音で生きていきたい」と願い、その都度その都度選択し続けるという生き方やあり方の話だ。